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by koyomim
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隣にほっかほっか亭が出来ました

変貌する帯山界隈
2ヶ月位前にマンション横の「〇学館」が閉鎖され、未だ数年の営業なのにと時勢の厳しさを見る思いです
この帯山地区には学習塾が乱立・・の感があり、少子化の影響がもろにきてるのでしょう

1週間くらい前から工事屋さんが入り、「ほっかほっか亭」が出来るとわかりました
24日にオープンとのチラシがあり、店舗の変わり様には驚きます
夕方には大きな看板が立てられ、マンションの場所を教えるにも立派な看板です








帯山にすむようになって47年…当時は保田窪という地名で“字“まで付いていたものです
ずいぶん変わりました
帯山サロンからバス道路が見えてた時代、バス停が先へ先へと延び、砂ぼこりの道路が舗装される
中でも大きかったのが、熊本空港(当時は健軍飛行場とよばれてたようです)が現在地に移転し、跡地に当時の女子大が大江から移転したのでした。東バイパスが通り便利になりました
昭和28年の大水害の被災者住宅が綺麗な団地になり、女子大の移転後はバス通りの名称が“女子大通り”
になったものでした…今は男女共学となり“県立大通り”としての公共の交通手段のバス道路なのです
東バイパスの開通で東部方面の開発が進み、県庁、水道局、動物園、そして公共の病院がその沿線に移転したのです。中でも、水道町にあった日赤病院の移転が昭和50年で早く、更に東部の開発が進んだのでした

40~50年代が帯山の繁栄した時代でしょう
女子大通りと言われた頃、稚児さん行列、4月8日のお釈迦様祭りが華やかで、今では町内の地蔵祭りが小さいおみこしを持っての(担ぐほどの大きさではないのです)ミニの行列だけが残っている用の思います
帯山商店街の当時の店舗が未だあり、バス停に立つ時、凄く懐かしく記憶の扉が開くのです
1軒の某店は当時からの店舗でそのままの形をとどめています
帯山は高台にあり「太洋デパート(現 城屋)の屋上と同じ高さにある」と言われ、昔を知る人は「帯山練兵場」を思い出されるのでした

大雨の時帯山辺りは全く異常なし、現在の九州記念病院のあたりは腰程の水位だった記憶があります
保田窪本町から帯山に…サロンは5丁目、時代が進み今は9丁目まであり、小学校もマンモス校と言われた帯小から帯山西小が独立したのです
帯山サロンの数本のイチョウかシュロの木を帯小に移植したこと、父が当時の印刷機“ガリ版印刷機“を借りたこと・・・今までの人生の凡そ7割近くの時代を帯山で生きていること、こうしてみると狭い土地で生きてるんだな~と、書きながら改めて思います
by koyomim | 2010-06-23 01:47 | いろいろ・・